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恥と樹の実と罪悪感と

こんにちは。みらです。

とても遅い明けましておめでとうでございますですm(__)m。
今年は2017年ですが
21世紀に入ってもう17年なのですねぇ・・・。驚きw。

私達が子供の頃イメージした21世紀とは
随分違っている気がします。当たり前なのでしょうが・・・

さて、そんな21世紀でも相変わらず人は人。
2000年以上も変わらずにいるものもあります。
今回はそんな変わらないモノ
罪悪感のお話です。

私はキリスト教の家庭で育ちました。

ガッチガチの唯一神信仰を刷り込まれていたので
人生が行き詰った時、そこを抜けるのに
相当に難儀しました。

その時、私の無意識で盛大に足を引っ張ってくれたのが
いわゆる”罪悪感”でした。
先ごろ、その罪悪感の正体が少し見えた気がしたので
少しこちらに書いてみようかと思います。

何故ならこの罪悪感、クリスチャンとして育たなくても
多くの人の無意識で、その人の足を引っ張っている様なのでw。

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私が今この記事を書こうと考えた理由は
最近あちこちで罪悪感に関する話を目にしたからです。

きっかけは、今何かと話題の女性
子宮委員長はるちゃんのブログに
書かれていたこの一言。


罪悪感は無くならない。
それは快楽を味わった後に出て来る
”生理反応”みたいなもの。
楽しいことをしたとか、美味しいものを頂いたとか

自分が良い思いをした後に必ず出て来る。
だからそれは仕方が無い。

私はこれからもその”罪悪感”を抱いて生きて行こう。


確かこのようなことが書かれていました。

その直後、心理カウンセラー
心屋仁之助さんのブログに

”あなたがあなたを責めない限り誰もあなたを責めない”
”あなたはどんな罪を背負っているの?”

とありました。
(ぢんさんのブログ記事)
http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-12238855805.html

その言葉でハッとなり、思い出したのが
旧約聖書の創世記に出て来る
あの有名なアダムとイヴの逸話。
アダムとイヴ楽園追放.jpg
そこへ大変タイミング良く
Twitterであるお方がこんな呟きを・・・

”恥ずかしいという感情は一体なんなのか
人類の永遠の謎だ”・・・

面白いことに
彼のこの問いかけが
私に罪悪感の正体を垣間見せてくれました。

アダムとイヴが知恵の実を食べた時
二人の目が開かれて最初に知ったことが
自分達が裸であると言う事。
彼らはそれを”恥ずかしい”と思ったのです。

私の中で、この罪悪感と恥が
繋がりました。


聖書に書かれている
人間が生まれ持って背負っているという

原罪。

この原罪故、私達は苦しみ
最後には滅んで行く。

その罪から人々を救うため
イエスキリストは十字架に掛かって死んだ

私はそう聞かされながら育ちました。

だから、私達は自分の罪を
いつも悔い改めながら
神に許しを乞い、生きなければならないと。

この”原罪”として語られているのが
件のアダムとイヴの物語。

神の命令に背き
蛇の誘惑にそそのかされて
禁断の果実を口にしたこと。

それは生命の木に生っている知恵の実。
それを食べた”人”は善悪を知り
神のうちの、ひとりのようになった。

教会では
知恵の実を食したこともいけないが
それよりも神の言いつけに背いたことが
原罪となった、と教えられてきました。

しかし、私はここの所の様々な人々の
様々な悩み、そして何より
自分の中の苦しみの正体を探って行くうちに
ひとつの答えに辿り着いた気がしました。

それは、私達が誰しも抱えている”罪悪感”
これこそが原罪の正体ではなかったか、という・・・


アダムとイヴが
禁断の木の実を食べた直後
知恵を得て、初めて知ったことは
自分達が裸であるということでした。

そこで二人は木の葉で衣服を作り
それを着て、神から隠れました。
恐れたからです。
そして神は言いました。

”誰があなた方に裸であることを教えたのか?”と

そして二人は楽園を追い出されます。
それが人類の苦難の始まりでした。


一般のキリスト教社会では

人々の苦難の原因は
神に背いたが故の罰であり

それゆえにイエスキリストの
十字架の贖いが無ければ
人の魂は滅ぶ、と信じられています。

しかし、私はこう思うのです。

人類が苦しみを背負っている理由は
知性を得たからだ、と。

知性とは何か。

知性とは突き詰めて表現するなら
基準を持つということではないかと考えます。
基準が出来ると判断が出来ます。
そこから自動的に区別、分類が行われます。

大変便利なことに
一度”基準”が設けられると
ここまで一気にオートマティックです(笑)。

さて、その基準ですが
おおよそ私の経験となりますが

白か黒か、上か下か、右か左か
必要か不要かといった区別をするのに
大抵、善悪が採用されています。

そしてその善悪の基準の大元は
快、不快、(好き、嫌い)が採用されているのです。

更に、その快不快にも大きな基準があり
それは、”誰にとって”、という
最も重要でありながら
非常に見えにくい次元にあるのです。

”世界は分離で始まった”
という言葉があります。

私が”私”を認識した途端
”相手(あなた)”を認識します。
私とあなた、という区別です。

人間関係とは
その認識の交差なのだと思います。

それから価値観の交差が始まり
お互いの善悪がぶつかり合います。

自分にとっての善と社会にとっての善。
相手にとっての悪と私にとっての悪。
これらを区別し、分類していくのが
知性の本質。

そしてその区別、分類のまなざしはは
当然”私の内側”へも向けられます。

やがて、私の中にある快不快
善か?悪か?の問いかけに
”悪”と判断が下された時

私達は”罪悪感”を抱くのではないでしょうか?

更に、自分の中の”悪”を知って
不快に思っている状態を
”恥じている”というのかも知れません。

アダムとイヴは知恵の実を食べて
裸でいることを知り
それを恥ずかしい、と思ったのです。

更に”恥ずかしさ”のには
とても人間らしい生々しさ
いわゆる本能に関わるモノが
大きく占めているように感じられます。

本能とは、理性では管理しきれないモノ。
善悪を超えて”ある”モノ。
知性では分離出来ないモノ。


人は多くの判断基準を造り出しました。
人間というモノに対しても
価値があるとか無いとか
エライとか愚かとか

そこから外れたと感じる時
人は、罪悪感を抱いたり
自分を恥じたりするのかも知れません。

ただ、私達はもう気づいてもいい頃
そういった価値基準には
実は、何の根拠もないってことに・・・

しかし、私達は知性を得て
エデン(全てが一つの次元)から
分離したこの世界に生きる以上
基準を外すことは出来ないのかも知れません。

だから、罪悪感は無くならないし
恥ずかしい、も無くならない。

けれどそれは”だから幸せになれない
幸せになる資格が無い”ではない。

幸せになっていい!
豊かになっていい!

どうしようもない自分で
何も出来ない自分のままで
楽しく生きていていい。

そう思えるようになって
私は原罪を失くしましたww。

罪悪感はあります。でももう
原罪ではない。
本当は”罪”なんて何処にもない。
誰も悪くない。


アダムとイヴはいつかもう一度
エデンの園に帰ってくるかもしれません。

裸でいることが
悪いことでも恥ずかしいことでもないと

その上で
私達は服を着ます。だって
オシャレって楽しいモン♡
って、神様に言えた時には(笑)

きっと・・・

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